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シュートを打つ覚悟と「当事者」の時代

 

佐々木俊尚氏の 「当事者」の時代 を読みおわっていろいろ考えた。

人は何故、「弱きものの代弁者」をしがちなのか。
あるいは、僕がそういうことをしてしまうのはどんなときか。
そう考えていたら、あるターニングポイントを思い出した。


僕自身、大学の頃までは、「客観的に見て正しくある」ことが一番クールだと思ってた。
だから周りからどう思われるかも、結構気にしてた。
周りから見ても正しくある奴でいたい、と。

だけど大学院時代、親しくしていた友達がある時、言った。

「主観こそがもっとも重視・尊重されるべきで、だから自分は常に主観的でありたい」

けっこう、ショックだった。誰にとっても、客観的に正しい事って一番大事だと思ってたから。
でもなんか説得力があって、そうかもしれないな、と素直に思えた。

それから「間違っているかもしれないけど主観的であること」という立ち位置を
意識するようになった。
「他人からどう思われているか気になるスイッチ」を意識的にオフにした。

そうなったら、二つのことが起きた。
ひとつは、自分の発言に対して、ちょっと覚悟みたいなものが出来たこと。
間違ってるかもだけど、俺はこう思うんだから仕方ない、という開き直りのようなもの。
居直りではない。「お前の考えは間違ってる」って指摘される覚悟。

もうひとつは、驚くべきことに、「知らない他人に寛容になった」ことだった。
自分だって間違ってるかもしれないけどこういう考えを元に行動している。
街角でちょっとカチンと来たりして、なんだよあいつ、と思っても、
あの人なりの事情と根拠があるかもしれない、と同時に思っちゃうのだ。

これは主観だ、という自覚があれば、自分の主張も他人の主張も、
絶対正しいとは自信が持てず、結果として、様々な考え方を認めることができる。
僕は違うと思うけど、そういう考え方もあるかもね、ってやつだ。

各人が主観を重視するというのは
寛容とか、多様性の受容とかそういうものにつながってる気がする。

佐々木氏のいうマイノリティ憑依とは、僕の理解では、
「客観的に見てこっちのほうが正しいだろ!」という自信からくると思うのだ。
だから、みんなが主観に自覚的になれば、そういう問題は解消するように思う。



サッカーで例えるなら、フォワードであること。
外すかもしれないけど、いやむしろ入ることの方が少ないんだけど、
外して批難されることも背負い込んで、それでもシュートを打つのがフォワード。

そういう「シュートを打つ覚悟」を、僕らは持つ必要がある。
そうすると、他人のシュートについて寛容で受容性を持っていられる。
みんなが発信する時代、そういうことなんじゃないだろうか。

世間の胸を借りるつもりで、自分の意見というシュートを打っていこう。

「当事者」の時代 (光文社新書)

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